放送における「文化の機会均等」とはどのようなものだったのか。昭和の幕開けを1年足らず後に控えた1926年1月、女性記者として知られていた大澤豊子が東京放送局を訪れる。以来、日本の放送は、女性向け教養番組の編成を本格化し、文化の伝播に貢献した。そこでは、辣腕の女性プロデューサーや天才華道家が活躍し、「花」(花を活ける文化)を主題とする講座が数多く放送された。その系譜をたどり、昭和期放送メディアの意義を考察する。